Let's Music !






その日、私が友人と待ち合わせをしているときのこと。
【彼】は私のすぐそばを楽しそうに横切っていった。
カーニバルにも似た、人々が沸き立ち浮かれた雑踏の中を、うわさの彼と。

その上ちらりと見たところ、二人が着ているのはどうやら同じブランドの服らしくて。


つまりこれってペアルック?








わたしの名前は北島真理子。

邦立音楽大学で講師として勤めている。


近頃、恩師の機嫌は最低を更新し続けている。―――つまり私のバイオリンの恩師である勝山助教授が、だけど。

先生は私の顔を見るとぴりっと眉を寄せるといつも同じようなことを言う。

「ちゃんと考えなさい」

それだけ。

ちゃんと、って何?って思う。

私はちゃんとやってるのに。

先生のコネで母校のバイオリン講師の職にありついて、何とかバイオリンと音楽とで生活できるようになった。
もちろんまだカルチャースクールでのバイトは辞められないほどの薄給だけど。

6人の生徒を受け持って、なかなか飲み込みの悪い子や理屈ばかりで腕はからきしの生徒に頭を悩ませながらも何とか講師業をこなしている。

でも、そんな私のありようは、同時期に入ったバイオリニストの活動のせいでいつも比較され、見比べられるせいで少し居心地が悪い。

【彼】の名は守村悠季。

同期とは言っても、彼は福山教授の派閥に属していて、私は我孫子教授の門下の勝山助教授の弟子だ。

初めて会ったとき、能天気にも隣にいた私に声をかけてきたもので、思わずあっけにとられたものだった。

講師としての職にあるつけるチャンスをもらえる機会はそれほどあるわけではない。もらえる椅子も限られている。となれば、どんな人物が講師になったのか知るのはさほど難しいものではない。

私の場合も推薦してもらえた時点で今回の講師の席が空いたのは2つで、もう一つの席は福山教授に選択権があることを知らされていた。そして、その席は留学していた【彼】が得たこともすぐにわかった。

それなのに声をかけてきたとは、この人は派閥のことや教授たちの間の駆け引きとか、大学内部のしがらみについて何も知らないのかと驚いた。それとも何か別の意図があってのことかと疑ったりしたのだが、どうやら急に留学から戻ってくることになっていたため、事情などはまったく知らなかっただけだったらしい。

もっともまともに顔を合わせたのはそれきりで、お互いに講師となって動き始めるようになると、それほど接触の機会はなくなった。

それでも【彼】――守村悠季――のいろいろな情報やうわさは入ってくる。

私はやっかいだからとさっさと逃げ出したフロイデの合宿に引っ張り込まれて雑務に追われていたそうで、不器用な人なんだと思ったり、福山教授のところの演奏会に参加して先輩方にも一目おかれたらしいこと、そして、M響との共演を依頼されて、シベコンを演奏したこと・・・・・。

気にするつもりは無くても、耳に入ってくるあれこれの中には私の気持ちをいらだたせるようなものが多い。

そして、きわめつきは・・・・・。

「ロン・ティボーに挑戦、ですか」

勝山教授に教えられたのは、あの【彼】がロン・ティボー国際音楽コンクールに応募したという話だった。

「ええそう。福山教授のお考えで、どの講師も一度は挑戦するのだそうよ」

「でも、コンクールは半年後ですよね?」

わずかな準備期間しかないというのに。そんな大舞台に挑戦するなら一年くらいはかけて準備するものなのに、ギリギリになってから応募するなんてなんて無謀な。それほど自信があるというのだろうか。

「まあ、福山教授が押し込まれたからということらしいけどね」

自分から進んで応募したというわけではなくて、強引に命じられたと言うことか。

でもそんな付け焼刃の準備だけで本選どころか予選さえ通過することは出来るのだろうか。無茶苦茶だ。他人事ながら気の毒に思えてしまう。

と、じろりと恩師の目がこちらを向いた。

視線は、『あなたはどうなの?』と言っている気がした。

まずい。

「そろそろ次の生徒の授業なので、失礼します」

こちらに矛先が向いて叱責だかお小言だかが出てきそう。なので、先手を打って退散することにした。


そんなふうにして恩師の下を退散してから数ヵ月後。なんと【彼】は予選に通過したそうで、コンクールに専念するために講師を休職して本選に挑むことになり、さらに本選に入るとファイナリストになった。

そして、ついにはなんと優勝を果たしてしまった。

学校はそれまで彼のことなどたいして注目をしていなかったのに、手のひらを返しもろ手を挙げて歓迎して迎え入れ、大学の事務局は非常勤講師の肩書きから非常勤の文字を消した。

その頃からだ。恩師の私を見る目が厳しくなってきたのは。

でも、私には無理だ。いくつかの国内のコンクールで入賞し、海外で短期留学はしたけれど、国際大会に出て優勝するなんて、くやしいけど到底無理。
身の程はわかっているのだ。

大学に講師として採用されたときに、【彼】とそれほど差があるとは思っていなかったのに、いったい何が違っているというのだろうか?







「あいつにはさ、強力なコネがあるからだよ。だからロン・ティボーでも注目されたのさ。ほら、福山教授は準優勝だし、ロスマッティ氏は優勝者だ。その弟子なら、そりゃひいきだってあるってもんだ」

私の疑問を口に出したわけではなかったが、【彼】の優勝記念コンサートの後、打ち上げと称してなじみの居酒屋に派閥の皆で集まっていたとき、先輩の講師がしたり顔で【彼】の裏事情とやらをささやいてきた。

もっとも先輩の言うことは、彼だけの憶測というか、邪推も混じっているようだったけど。
その理屈でいったら、優勝者の弟子が優勝出来るというなら、他の優勝者の弟子だってすべて優勝出来るはずなのだから。

その晩、本当なら学校長と一緒に二次会の会場に行く予定だったはずだったのに、福山教授の手柄自慢されるのが業腹で、愛想よく振舞うことが出来なかった我孫子教授や勝山教授らがここに集まってきたのだ。当然、恩師がこちらにいる以上、私にはお供する以外の選択肢は、無い。

でも、ここにいることは、とても居心地が悪かった。

先輩講師の中には酒癖の悪いものもいたからだけど、それにもまして聞かされてつらいのは先輩たちが口にする陰湿な悪口や繰言めいた愚痴の数々。なんだか悪酔いしそう。でも、いくら内心でうんざりしていても、それを表情に出すことは出来なかったけど。

先輩たちのくやしさはわかる。妬みそねみも、まあ理解できる。でもそれだけでこの行動なんて本当にいいのだろうか?

「それにさぁ、知ってるかい?あいつホモなんだよ」

酒の臭いをさせながらひそひそと耳元にささやいてくるヤツもいる。親愛の情を示すつもりなのか、それとも酔っ払いの無意識なのか、肩を抱いてきながら、だ。

ちょっと、それセクハラですから。

それに、ホモだからなんだっていうの。ホモだからってバイオリンの腕に関係ないじゃないの!
口には出せなかったけど、内心では思い切り文句をつけていた。

悪口は酒の席のことだけではなかった。先輩たちの中傷が、しばらく沈静化していたかと思ったのに、最近また増えてきたような気がする。講師たちの控え室で、私たちの派閥のメンバーが揃っているときに話が蒸し返されるのだ。
おかげで下っ端である私は拝聴しているふりをしながら、右から左へと聞き流していたけれど・・・・・疲れる。






うわさの【彼】の姿を見たものだから、あのときの酒席でのいやな記憶まで思い出しちゃったじゃない!

さっき見た【彼】とお相手らしい
桐ノ院氏彼氏

とても楽しそうで、あのふたりが友人同士であろうと恋人同士であろうと、どちらでもいいんじゃないかと思う。並んでいるの姿がごくごく自然だったから、なんてね。いくら派閥が違うからって、私生活にいちゃもんをつけるのは間違いだと思うから。おおっぴらには口に出せないことだけど。

そう言えば二人とも楽器ケースを片手にしていた。これからどこかで演奏会なのだろうか?【彼】が持っていたのはバイオリンだろうと思うけど、指揮者である桐ノ院氏もバイオリンケースらしいものを手にしていた。だからよけいにペアに見えていたのかもしれなかった。

なんだかちょっと・・・・・。いえ別にうらやましいというわけじゃないんだけど。

本当に、いじけているってわけじゃ。



「ちょっと、真理子。なんてしょぼくれた顔してるのよ」

どんと背中をたたかれて、はっとして振り向いた。

「タマちゃん」

「ちょっとぉ、タマちゃんはやめてって言ってるでしょうが」

がくりと肩を落としてみせたのは、親友の高山環だった。

彼女とは音楽高校の頃からの気心が知れた仲で、大学も同期、卒業後は当然演奏家の道を進むのだと思っていたのだが、あっさりと見切りをつけて大手イベント関係の企業に就職していた。こちらのほうが性に合っているのだと言っていたように、すっぱりとバイオリンとは縁を切り、今は別の仕事で活き活きとして働いているようだった。

卒業してしばらくは互いのスケジュールが合わなくてなかなか会う機会がなかったけれど、あちらは仕事にも慣れて余裕が出来てきたところだったし、こちらも講師の職にありついて時間的にも経済的にもゆとりが出来た。そのおかげでこうやってまた会うことが多くなった。

今日、このオープンカフェで待ち合わせていたのも彼女からのお誘いで、都心での音楽祭に行かないかと言ってきたのだ。名づけて『夏至祭』(ミッドサマーフェスティバル)に。

周辺にあるいくつかの音楽ホールで数日間様々なクラシックの催し物が開かれるもので、チケットを購入するオーケストラからトリオやカルテットなど小規模編成の演奏会だけではなく、広場ではミニコンサートも開かれていて、無料で聴くことが出来る。

カフェでお茶を飲みながら優雅にクラシックに浸ることまで出来て、それまでクラシックに興味が少なかった人たちにも気軽に参加してもらえるような催し物も多い。

つい先ほど演奏していた海外の有名な演奏家たちが喫茶店にやってきて、自分のすぐ隣の席でコーヒーを飲んでいるのに出くわすこともあるという、嬉しいサプライズもありなのが、ファンにとってはたまらない。

「開場時間はもっとあとでしょう?なんでこんなに早い時間を待ち合わせに指定したのよ?」

私は思わず不平をぶつけた。

待ち合わせの時間よりも早めに到着して彼女を待っていたせいで、会いたくも無い【彼】の姿を見ることになってしまったのだから。

「まあまあ。音楽祭に来たんだから、雰囲気も楽しまないと損じゃないの」

いつものように少し遅刻してやってきた環は悪びれない様子で隣の席に座った。

「そりゃそうだけど」

私たちが待ち合わせしたのは、ミニコンサートが開かれている会場のすぐそばに開いているオープンカフェだから、無料コンサートを目当てにした客たちが大勢座っていて、次々に演奏される曲を楽しんでいる。無料なだけあって、演奏される音楽は玉石混交。

うまい者もいれば、ヘタな者も混ざっている。今もデビューしたばかりらしい若い女の子が素人くさい歌を披露して、ぱらぱらとした拍手とともに退場していったところだ。

頭上や街路灯にはカラフルな飾りつけ。会場内で売られているのは出場者たちのCDや演奏されていた楽譜など。

ほかにも、会場周辺の店先にはにぎやかなポップや手作りらしいイラストが掲げられていたり、クラシックをモチーフにした様々なグッズが売られていた。

今も私の前のテーブルに置かれているのはト音記号が泡で描かれたカフェラテだったりする。

音楽祭の主催者だけではなく、この会場周辺の店々でも盛り上げていこうという熱気が感じられた。

これって、なんだか音大の学祭を思い出す。現在のではなく、自分が学生だった頃のときのことをだ。

「ちょっと学祭を思い出すわね」

環も私と同じ印象を持ったらしい。

あの頃の私たちは精一杯音楽にひたっていて、たくさんの可能性を持っていて、何でも出来る気がしていた。希望に満ちて、傲慢で、恐れを知らなかった。

すべてがきらめいて見えていた頃。

学祭は定期試験が終わった後の鬱屈がはじけたような浮き上がったようなにぎやかさに包まれていたものだ。底抜けの明るさがどこか似ているようで懐かしささえ感じさせた。

私がしみじみと追憶にふけっていると、環がわき腹をつついてきた。

「ほら、次が始まったわよ!」

彼女が指差す方を見ると、路上に設けられているステージに入ってくる人たちがいた。

手にはバイオリン二人、ビオラ、チェロなどの弦楽器に加えて数人の金管木管の吹奏楽器を持った人たちが。どうやらこれは少々変則的な編成の室内楽団といったところだろうか。